「道草」(夏目漱石)①

世の中に片付くなんてものは殆んどありゃしない

「道草」(夏目漱石)新潮文庫

海外留学から帰国し、
大学に勤めている健三は、
ある日、
絶縁した元養父の島田と会う。
かつての縁を種に
金をせびろうとする島田。
それだけでなく、
元養母お常、妻の父と、次々に
金銭的援助を求めてやって来る…。

読み終えて明るくなりませんでした。
もちろん漱石の作品のほとんどは
明るくなどなりません。
「坊っちゃん」でさえ、
行間から漱石の慟哭が
聞こえてくるような気がしています。
明るいのは
「吾輩は猫である」くらいでしょうか。
でも、本作品の「明るくなさ」は、
他の作品と少しばかり異なります。

「彼岸過迄」にしても
「行人」にしても
「こころ」にしても、
人間の存在の根源を捉えた作品であり、
それ故に明るくないにしても
心に残るものがあり、
それは読み手の心の中で消化され、
かつ昇華されるべきものでした。
しかし、本作品の場合は、
やるせなさがだけが後を引き、
心が消化不良を
起こしてしまったような感覚です。

その原因の一つは
問題が解決したようでいて、
実はまったく解決していない、
つまり完結せず終わる筋書きにあります。
「片付いたのは上部だけじゃないか」
「世の中に片付くなんてものは
 殆んどありゃしない」

という主人公のセリフが
すべてだと思います。
読み手にしても
「何も片付いていない」
感触のみが残ります。
もちろん、
漱石はそれをも狙ったのでしょうが。

無事解決するような幸福な終末は
どう考えても有り得ないと思いつつ、
主人公にもっと大きな破綻があり、
そこからなにがしかの教訓を
現代に生きる私たちに
指し示してくれるものと
考えていたのが
肩すかしを食らわされました。

おそらく漱石は、
これまでの創作の姿勢とは
違ったスタンスで、
この作品と対峙したに違いありません。
1915年3月に5度目の胃潰瘍に倒れ、
その翌月から連載を開始した本作品。
健三=漱石なのだといわれています。
自分の残された時間の
少ないことを覚り、
自分が書き漏らしていたことを
急いで書き表したかのようにも
考えられます。
それはこれまでのように
自分の思想世界を作品化するのではなく、
自分自身を書き残したいという
願いのようにも思われてなりません。

現代に生きる私たちは
本作品から何を読み取るべきか。
漱石がこの世を去って100年。
読み解く作業は専門家の手を離れ、
一人一人の読み手に課されつつあります。

(2019.1.11)

【青空文庫】
「道草」(夏目漱石)

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